#192 斉藤満喜子さん

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192回目は斉藤満喜子さんです

広島県出身。堀越高等学校卒業。広島に居た頃は、

地元のラジオ番組「サテライトNo.1」(中国放送)にアシスタントとして出演していた。

高校在学中の1986年8月10日、

ミスセブンティーン・コンテストwithおニャン子クラブで準グランプリ。

おニャン子クラブ会員番号42番として活動を開始。

太い眉毛が印象的で「マッキー」の呼び名でファンから親しまれていた。

おニャン子クラブの岩井由紀子さんと高井麻巳子さんによるユニット

「うしろゆびさされ組」が、高井麻巳子さんの卒業により解散したことを受け

結成された後継ユニット「うしろ髪ひかれ隊」で、工藤静香さん、生稲晃子さんと共に活躍。

おニャン子クラブ解散後は、うしろ髪ひかれ隊の活動を継続。

同ユニットの活動停止後は、タレントとして『なるほど!ザ・ワールド』などに出演。

1988年には「やりたい放題」でソロデビュー、

1990年にもセカンドシングルを発売するがヒットには恵まれなかった。

佐野量子さんとは大親友。

しかしうしろ髪ひかれ隊が務めていたラジオのアシスタントの代役を佐野が務めた時は、

「おニャン子と違って最初からソロでマイペースで羨ましくて」と嫉妬が先立ち、

その回の電話出演時、工藤さんや生稲さんが

「佐野量子ちゃんによろしく」と挨拶したのに彼女はスルーした。

しかし同級生だった西村知美が主催したクリスマスパーティーに

杉浦幸さん、島田奈美さん、渡辺美奈代さんと共に招かれた時、

佐野さんから、その件について問い質され、周囲の後押しもあり、

わだかまりを解消することができた。

その後も進学や結婚も佐野さんを意識して決めたと言っており、

「周囲からはそう見えないだろうけど深い仲」とのこと。

夫はスジャータのブランドで知られる名古屋製酪の代表取締役社長・日比治雄さん。

現在は芸能界を引退して、一男、一女の母である。

やりたい放題 c/w NO!NO!NO! (1988年7月21日)

鏡の中のBaby Face c/w ラスト・グッバイ (1990年7月11日)
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# 191 本田理沙さん

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191回目は本田理沙さんです

堀越高等学校卒業。

1986年夏、大塚製薬主宰で

「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」の全国大会に出場し、

フロム・ファーストプロダクションからスカウトされて芸能界に入る。

1988年7月、「Lesson2」でアイドル歌手デビュー。

今でも芸能界の一線で活動する同期デビューには

高岡早紀さん、田中律子さん、西田ひかるさん、藤谷美紀さんなどがいる。

テレビ朝日系で放送されていたテレビアニメ『おぼっちゃまくん』の

第2期エンディングテーマとなった5thシングル「容赦なく愛して」は、

同作品の原作者である小林よしのりさんの作詞。

テレビドラマ『花のあすか組!』(フジテレビ系)などに出演し、

後にセミヌードで写真集を多数発売。

『スーパーマリオクラブ』の司会も務めた。

1997年、結婚し引退。

2008年5月、週刊誌『FLASH』のグラビアにて復帰する。

2010年3月、父親が急死し高齢の母1人が残されたことをきっかけに

出身地の大分県中津市に帰郷、

以降大分を拠点に芸能活動(ママドル)や司会業を行っている。

また、タレント育成スクール「TPET(ティペット)」の

代表として大分のご当地アイドルの発掘なども行っている。

2010年8月27日、聖地中津からあげの会よりからあげ大使を任命された。

私生活では、1997年に結婚し引退するがその後離婚。

2002年に再婚するも再度離婚し、2017年現在2児の母である。

趣味では本格的にベリーダンスの活動をしている。

シングル

Lesson2/INNOCENT~イノセント~  (1988年7月1日)

いちごがポロリ/Flapper  (1988年10月21日)

本気!/本気2 (1989年3月8日)

さそって入口 ふるえて出口/横浜異邦人 (1989年7月1日)

容赦なく愛して/Seventeen's Heart (1989年11月1日)

ドキュメンタリー/海 (1990年5月21日)

a・za・mi/愛してる… (1991年5月22日)

# 190 吉田真里子さん

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190回目は吉田 真里子さんです

1980年代後半から1990年代前半にかけて活躍した

日本のアイドル、シンガーソングライター。

兵庫県姫路市出身。身長156cm、体重45kg。

B型。スリーサイズはB79cm W59cm H80cm。

1987年、兵庫県立姫路東高等学校在学中に

第6回ミスマガジン(講談社)特別賞を受賞。

1988年、「とまどい」でCBS・ソニーからアイドル歌手デビュー。

シングル8枚、アルバム5枚をリリース。

1993年、インディーズレーベル「ブルータートル」を設立。

1999年、最後のライブ。以降、オフィシャルHPを開設し、

時々日記を更新。ラジオ番組への出演、ファン向けイベントのみ活動。

2002年、自身のHPにて、2001年9月23日に入籍した事を発表。

あわせて芸能活動引退を発表。

シングル

1988/05/21 とまどい / 淡色の予感 
(オリコン14位、3.6万枚、EP:07SH-3061、CDS:10EH-3061)

1988/09/21 さよならのリフレイン / 風を描いたキャンパス 
(オリコン15位、3.3万枚、EP:07SH-3110、CDS:10EH-3110)

1989/02/10 夢を追いかけて / 悲しみを吹き飛ばせ 

(「名門!第三野球部」主題歌、オリコン21位、2.5万枚、EP:07SH-3159、CDS:10EH-3159)

1989/06/01 夏の恋人達 / 手紙 

(オリコン24位、1.7万枚、CDS:10EH-3289、SCT:10WH-3289)

1989/12/10 嘆きの天使 / 黄昏のサリンジャー 

(オリコン54位、0.9万枚、CDS:CSDL-3044、SCT:CSSL-3044)

1990/05/21 陽ざしのソリチュード / 伝言 

(オリコン66位、0.7万枚、CDS:CSDL-3092、SCT:CSSL-3092)

1990/10/21 Roman〜ロマン〜 / 19歳 

(オートレースCMイメージソング、オリコン61位、0.6万枚、CDS:CSDL-3177)

1991/11/21 すべては空の下 / ホワイト・クリスマス

(CDS:SRDL-3408)

1988年FM東京リスナーズグランプリ(JFNリスナーズアウォード)最優秀新人賞受賞。

この年、賞レース常連の相川恵里さんと仲村知夏さんを抑えての最優秀新人賞受賞。

# 189 生稲晃子さん

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189回目は生稲晃子さんです

東京小金井市出身。小金井フットボールクラブに所属し、

全国大会優勝した時のメンバーである。

小金井市立緑中学校→私立吉祥女子高等学校 →

恵泉女学園短期大学英文学科卒業。

高校は芸能活動禁止であったが、生稲の成績が非常に優秀であったため、

「トップの成績を維持すること」と「大学を受験する事」の

2つを条件に芸能活動が特別に許可された。

1985年、『第10回ホリプロタレントスカウトキャラバン』の

賞金(優勝者本人に100万円、推薦者に50万円)に惹かれ、

兄を推薦者にして「もし優勝したら150万円山分けしようという事で」応募したことが発端。

途中落選となったものの、ホリプロの系列モデル事務所からスカウトされて所属することになり、

以後複数のオーディションを受けた。

(それ以前にも、アイドル雑誌ザ・シュガーの「今月のセーラー服美人」というコーナーで紹介記事が計3ページにわたって掲載されている)。

1986年3月、「これでダメなら大学受験に向けた勉強に専念しよう」と決めて

『タッチ』ヒロイン・浅倉南のイメージガールを選ぶ「ミス南ちゃんコンテスト」に出場。

原作者のあだち充が生稲を推したこともあり大会関係者から

「たぶん優勝は君になる」と優勝内定を知らされていたが、

発表当日になってこの話は流れてしまった。

このとき居合わせたレコード会社の関係者から

「おニャン子クラブのオーディションを受けてみますか?」と声を掛けられる。

優勝内定から一転、落選したショックから直ぐに次に繋がる話に飛びつく思考に切り替えることが出来ず、

即答は避けて一旦保留とする返答のみをして帰宅した。

おニャン子クラブのファンだった兄はオーディションの話に乗り気だったが、

当の本人である生稲は、通常夕方は部活動をしていたので、

夕方からの生放送番組の出演となれば退部を余儀なくされるために乗り気ではなかった。

また、フジテレビ系放映『夕やけニャンニャン』の放送を殆ど見たことが無く、

雑誌や音楽番組などで見聞きしていた程度の認識であった。

生稲が憧れていたアイドル歌手やおニャン子クラブのように

大勢のアイドルが所属していたモモコクラブのメンバーと比較し、

「おニャン子はブスが多いから、入るのは嫌だ」と兄に漏らした。

二の足を踏んでいた生稲であったが、

当時生稲がファンだった「トシちゃんのレコードをあげるから」とレコード会社の人から言われたため、

ためしに受けてみる事になった。

また「(夕やけニャンニャンに出演時は)時給5千円」の一言にも魅力を感じたという。

1986年6月、『夕やけニャンニャン』内オーディションコーナーを経て、

1986年6月13日に、おニャン子クラブの会員番号40番としてデビュー。

10月、渡辺満里奈さんのデビュー曲「深呼吸して」で工藤静香さんと共に

「with おニャン子クラブ」としてバックコーラスで参加。

11月1日、おニャン子クラブの6枚目のシングル「恋はくえすちょん」でフロント4人の中に入る。

12月、ローソンのからあげクンのCMに単独で出演。

おニャン子クラブ4枚目のアルバム『SIDE LINE』に収録されている

「ハートに募金を」がBGMとして使用される(CM用に生稲のみのボーカルアレンジ)。

高校での成績は優秀だったものの、芸能活動をしているという理由で大学入試の際に学校からの推薦が得られなかった。

1987年になると、芸能活動を控え、『夕やけニャンニャン』にも約1ヶ月ほど出演せず受験勉強に専念した。

1987年4月に恵泉女学園短期大学(英文学科)に入学。

受験を終えて芸能活動を再開。

復帰初日、(自身が)休んでいる間に新ユニットうしろ髪ひかれ隊のメンバーに

工藤静香さん・斉藤満喜子さんと共に抜擢され、既に決定事項としてプロジェクトが進んでいることを知らされ面食らう。

しかし、自分の立場では異議を申し立てることも断ることも出来ず、成り行きに任せざるを得なかったという。

1987年5月、「うしろ髪ひかれ隊」は「時の河を越えて」でレコードデビュー。

同曲及びc/wは、アニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌とエンディング曲に起用された。

1987年5月18日付のオリコンシングルヒットチャートで初登場第1位を獲得。

音楽番組にも多く出演し、順風満帆なスタートを切った。

これを期に、メンバー3人揃って芸能プロダクション「プロダクション尾木」に移籍。

もともと生稲は長く芸能活動を続ける意向は強くなく、将来的に堅実な学校教諭になる道を考えていた。

そのため学業を疎かにせず、大学進学後も意欲的に講義を受けていた。

「うしろ髪ひかれ隊」としての活動はおニャン子クラブの活動終了とともに終える青写真であり、

生稲もその心積もりでいた。しかし、スタッフの「やめようと思っていたけど、売れたことだしこのまま続けるから」の一言で、

1987年9月20日のおニャン子クラブ解散後も「うしろ髪」としての活動はしばし続行された。

それだけにおニャン子解散時の精神状態は不安定であった。

解散特番のラジオの終盤では夕ニャンのスタッフに

「もう「深呼吸して」は3人じゃ歌えないんだな…」としみじみ言われたことを涙ながらに語っていたが、

聞き役の渡辺満里奈さんに「何泣いてんのよ!」と叱責され我に返っていた。

1988年4月をもってうしろ髪ひかれ隊の活動が休止。

5月21日に「麦わらでダンス」(フジテレビ系放映アニメ『ついでにとんちんかん』主題歌)でソロデビュー。

7月にはフジテレビ系ドラマ『あそびにおいでョ!』で連続ドラマに初出演。以後ドラマやバラエティ番組など多数出演。

2001年4月、永らく所属していたプロダクション尾木より独立。

女優としてCBC制作のドラマ『キッズ・ウォー』シリーズに長く主演したほか、

テレビ朝日の人気時代劇『暴れん坊将軍』にはVIIシリーズからVIIIシリーズ第1話は魚屋兼岡引・おぶん、

VIIIシリーズ第2話から800回スペシャルは江戸町火消しめ組の頭長次郎(山本譲二)の妻・おぶんとして出演していた。

古典芸能に造詣を持ち、NHKの『日本の古典芸能』『芸能花舞台』の司会も務めた。

2003年にCM制作会社プロデューサー・佐山智洋と結婚(現在、鉄板焼き店経営)。

2005年10月、妊娠していることが判明、「思っていたよりつわりがひどかった」とのこと。2006年3月に第1子(長女)を出産。

2006年からは芸能事務所・株式会社ポートレーブに所属。

家事の都合や子育てに支障が出ないスケジュールを組んでもらい、主に女優やレポーターなどの仕事を中心にしている。

近年は、夫婦で鉄板焼き屋を経営し、生稲も時間がある時には女将として店に出ている。

テレビ朝日系『ちい散歩』や『三波豊和の日本が元気です』等司会やレポーターの仕事を中心に活動。

2009年よりプロダクション尾木に復帰。

2010年7月、ハートフルライフカウンセラー学院にて認知行動療法を学び、心理カウンセラーとして活動を始める。

2010年9月、AKB48Team Ogiが開催した音楽イベント「Team Ogi祭り」に城之内早苗らとゲスト出演。

『麦わらでダンス』を当時の衣装、ダンスとともに披露した。

2011年4月28日、43歳の誕生日に乳がんが発見される。

5月6日に腫瘍のある部分を切除する乳房温存手術を受け、放射線照射と薬による治療を続けた。

2012年の夏、再発が判明。がんのできた部分を切除する再手術を受ける。

2013年10月に3度目の切除手術、同年12月27日に右胸の全摘手術を受けた。

2015年10月27日、右乳房の再建手術を受ける。同年11月、自らのがんを公表。

2016年9月に「働き方改革実現会議」の有識者委員に選出される。

#188 田中律子さん

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188回目は田中律子さんです

1984年、東京都町田市の小田急百貨店でボックスコーポレーション勤務のマネジャーにスカウトされ、

「田中理津子」名義で雑誌『週刊セブンティーン』(1984年10月23日号)にてモデルデビュー。

2度目に同誌(1985年3月26日号)に登場した際から、「田中律子」名義となった。

1985年7月、連続ドラマ『ママ、大変だァ!』にレギュラー出演し、女優デビュー。

その後、雑誌『投稿写真』でのグラビアやNHKテキストシオリ1987年のイメージガールなども務めた。

その後、パウチッコのCMに出演し、CMを見ていたレコード会社関係者からスカウトされ、

1988年(昭和63年)5月21日にフォーライフ・レコードより

筒美京平プロデュースにより「FRIENDSHIP」でアイドル歌手としてもデビューした。

歌手としてはシングル11枚、アルバム5枚を発売。ポスト杏里として売り出されたが、

ヒット曲は出なかった。同期歌手デビューはwink、西田ひかるさん、高岡早紀さんなどがいる。

当時、ニッポン放送で放送していたラジオ「関根勤のTOKYOベストヒット」では

同期デビューのアシスタント仲村知夏さんとの相性がよかった。

第4弾シングル「また夏が来る・・・」は欧陽菲菲の「ラブ・イズ・オーバー」を書いた

伊藤薫氏の手による楽曲である。また、ラストアルバム『ハート・ボイス』は本人のセルフプロデュース。

その他藤原ヒロシなどが楽曲プロデュースをしている。

1989年(平成元年)、テレビの連続ドラマ『愛しあってるかい!』(フジテレビ)への

出演をきっかけにテレビドラマに多数出演するようになった。

活動は女優業が中心となったが、

その傍らバラエティー番組の司会や音楽活動も1990年代前半までおこなった。

1997年(平成9年)には妊娠と結婚を発表、

同年年末まではテレビ番組『'98新春ドラマスペシャル 味いちもんめ』(テレビ朝日)の撮影や、

レギュラー出演していたバラエティー番組『王様のブランチ』(TBS)を続けた後、

翌1998年(平成10年)3月末をもって芸能活動を休止(産休)した。

女児を出産した田中は、同年中にテレビ出演を再開した。

2007年(平成19年)、FILM FACTORYで監督業に進出。

また、テレビの連続ドラマ『こどもの事情』(TBS)では、初めて連続ドラマに主演している。

2015年(平成27年)ウルトラ・ヴァイヴレーベルより歌手時代の

全シングル音源を収録したベスト盤CD『FRIENDSHIP コンプリート・シングルス』を発売した。

1990年代前半には、当時人気の絶頂期にあったサッカー選手・三浦知良さんとの熱愛が報じられたが

結果的に誤報であった。

1992年(平成4年)1月にテレビのバラエティー番組 『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ)の

「テレフォンショッキング」にゲストとして出演した田中は、

次回に出演する友人として三浦知良さんを紹介、

実際に次のゲストとして三浦さんが出演するというエピソードもあった。

しかしながら三浦さんとは異性の友人に過ぎず、三浦さんは1993年(平成5年)、

商社マンの娘で帰国子女であるモデル、三浦りさ子さんと結婚している。

田中は1997年(平成9年)、妊娠4ヶ月であることを発表、

相手であるカメラマンの杉本学さんと結婚し、翌年に女児を出産した。

2012年2月に離婚。15年の結婚生活にピリオドを打った。
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